こくほ随想

イレッサ(R)

2002年7月に、世界で最初に肺ガンの薬剤として日本で認可された「イレッサ(R)」(アストラゼネカ社製)が、発売直後から重い間質性肺炎などの副作用報告が相次いだが、その被害を受けた患者やその家族が訴えていた東京地裁の裁判で、東京地裁は1月7日、イレッサ(R)の副作用について検討不備とし、国とアストラゼネカ社と原告に対して和解(示談)するよう勧告した。

これにたいして原告は和解に応じたが、国とアストラゼネカ社は和解に反対、1月末に国も同裁判の判決を求めることになり、判決が行なわれることになった。これにたいして原告側の患者は「会社側に反省がない」と反発しているが、日本肺癌学会と日本臨床腫瘍学会は「承認後にわかったデータから、承認前の判断や対応の責任を問うているのは問題で、薬事行政の萎縮や、製薬企業の開発意欲を減退させるなどのデメリットがある」と指摘した。

イレッサ(R)という薬剤は、それまでのガン治療薬のように、ガン細胞に作用するが、同時に正常細胞にも作用して、強い副作用が出るというタイプのものではなく、ガン細胞だけを選択的にねらい打つという、ある面では画期的なものであったが、実際に登場した「イレッサ(R)」はたしかに肺ガン患者を治ゆに近い状態にする効果も示したが、反面、間質性肺炎などの副作用が強く出て、失命した人もいた。2003年にイレッサ(R)を認可したアメリカは2年後の2005年に新規の患者への使用を禁止し、欧州では使える患者を限定している。

ところで、今回の和解を拒否して「判決」を求めた国やメーカーの姿勢をどのように見るべきなのだろうか。今後の問題もあるので、このさい、よく考えてみる必要があると思う。

端的にいうと、私個人の考えとしては地裁の和解勧告に応じなかったことは、間違いではないと思う。それには、いくつかの理由を挙げて、説明しなければならないが、和解に応じなかったからといって、患者やなくなった人の遺族を放置しておいていいということではないことをまず申し上げたい。あらゆる既存の制度を活用し、新しい制度を設けてでも、原告たちを救う努力はまず行なうべきで、それは、裁判の結果とは次元の異なる問題だと私は考えている。

私が和解を拒否して判決を求めたことがいいと思う理由は第一に、今後、開発する薬は「イレッサ(R)」のように、よく効くが、ひとつまちがえると死ぬかも知れないというような、強烈な“両刃の剣”のような薬剤が開発されることになると予想される。「よく効く薬は副作用も強い」というのは薬剤の常識である。戦前に薬害がなかったのは、それだけ効く薬がなかったということなのである。この投薬の“サジ加減”こそ内科医の“生命”ともいえるだろう。だからイレッサ(R)の薬効と副作用を裁判はどう考えているのかは今後にとって重要な問題である。

「和解」というのは解決手段としては、いまの社会で有効な手段だと思うが、これはかなり理論的には“いい加減”なものではないかと思う。とくに責任の所在がかなりあいまいになる。それよりも理非曲直をはっきりさせるべきで、そのためには和解を避けたほうがいいと思う。

薬害裁判でいつも思うのは、どうして医師の責任が問われないのかということである。「医師の責任を問うとカルテが出ない」といわれるが、カルテはもともとは患者の所有に帰すべきものだと思う。イレッサ(R)は、むずかしい判断を必要とする薬なのに、安易に投与されたケースはないのか。また、ネットで素人が薬剤を購入することは、許されてはならないものではないか。それを使って事故を起こした責任がメーカーや国に問われることは妥当なことと考えられるのか。このさい、徹底した議論を求めたい。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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