こくほ随想

人工透析料と健康保険

この30年ぐらい、ずっと私の頭の中で、いつも居坐っていて、一向に解決できない問題がある。それは「人工透析」である。人工透析の技術が日本に導入されたのは、昭和30年代の中ごろだと記憶している。当時は腎臓移植は”夢のまた夢”の時代で、腎臓病患者にとっては大きな福音となった。

しかし、透析料がとてつもなく高い。当時は一回の透析が4万円以上もした。これを週三回も繰り返すのだから患者にとっては大変な負担だった。当然のことながら「金の切れ目が命の切れ目」ということになっていて、片方、病院のほうからいえば”ドル箱”だった。これが社会問題になりはじめたのは、1980年前後だった。当時、私は「社会保険審議会委員」をしていた。この「金の切れ目が命の切れ目」というのは何とかしなくてはいけないと考えて、いろいろ画策の末「高額療養費制度」を導入して、透析患者も安心して健康保険で受けられるようになった。今思えば、これは社保審の功績というより、高度経済成長のおかげだったというべきだろう。しかし、当時は、これができて、快哉を叫んだことは事実である。それと、当時一回の透析料が4万円以上だったのを保険導入とともに療養費を下げ、いまでは1万円ちょっとぐらいになっている。私は「これで社会保障だ」と胸を張りたい気持で昂揚していたのを覚えている。

人工透析は先進国で当然のこととして健康保険の適用を受けるようになった。ところが、社会保障に積極的だと考えられていたイギリスやドイツで、経費が保険財政を圧迫するということから、前世紀の終わりに入る前ごろから「60歳以上の人は、人工透析の健保適用を受けられない」ということになった。まさに「金の切れ目が命の切れ目」である。


福祉の先進国といわれる国でどうしてこういうことがまかり通るのかと思って、イギリスやドイツに行くたびに各界の人にこの問題の意見を聞いてみた。保健省の役人も医師会の先生も、医療経済学者も、積極的に反対という人は少なかった。私は意外に思ったのだが、ある役人は「老人の透析を健康保険で認めていたら健康保険は成り立ちませんよ」という人がいて、その人は「多分、私の考え方が最大公約数ですよ」といっていた。

それについて思い出されるのは、70年代の終わりにテレビ取材でヨーロッパに行ったさい、イギリスの保健相にインタヴューした(相手は労働党左派のバーバラ・カースル女史)。当時のイギリスは家庭医から大病院に紹介された患者のウェイティング・リストが長く、白内障などは3年間も待たされていた。その点を大臣に確かめたところ「その通りです」という。そこで重ねて「3年も待たされたら白内障も悪くなって眼が見えなくなるでしょう」といったら「どうせ老人ですから」という答が返ってきて驚いた。日本で厚労相がこんなことをいったら、多分その日のうちに辞表提出ということになるだろう。しかし、ヨーロッパでは必ずしもそうではない。それが「常識」のように私には思えた。こういう話は結構ある。

今世紀の初めにニューズウィークが「2015年、スウェーデンが社会保障から全面撤退」という特集記事を掲載した。私はスウェーデンで、医師会や病院長らにこの記事の感想を求めたところ「そうなるかもわからない」といった人が大半だった。社会保障王国といわれるスウェーデンでも、財政は重くのしかかっている。

この透析料は確かに小さくはない。日本の場合、糖尿病から来る透析患者だけで年間1兆2,000億円もある。糖尿病の診断・治療(薬剤等)の費用は8,000億円である。このあたりの問題が日本で提起されないという保証はない。そうなったとき、反対のデモが起きるだろうか?

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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