こくほ随想
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民主主義・経済成長・社会保障1年間続けたこの連載も今回が最後になる。最後にどんな話を書こうかと思案している時、ロシアによるウクライナ侵攻という21世紀の今日に信じられない事件が起こった。 今回のパンデミックが起こった最初の頃、迅速な対応で比較的早期に事態に対処し、感染拡大を(いったんは)収束できた国の多くは権威主義国家だった。欧米の民主主義国家が人権制約を伴う行動制限(ロックダウン)や感染者の隔離に手間取る中、強権的な市街地封鎖や市民生活の抑圧で感染を抑え込んだ「専制国家」の対応を賞賛する声すらあった。 「開発独裁」という言葉がある。発展途上国では「国づくり」が大きな国家命題だ。早く先進国に追いつき、できることなら追い越していかないといけない。それには国家国民が一丸となって取り組むことが必要になる。そんな時に、自ら政治的意思決定をしたことのない、市民意識の育っていない一般大衆を相手に「万機公論に決すべし」などとやっていたら国がまとまらず政治も行政も経済も動かない。卓越したトップリーダーが強い権限を持ち、明確なビジョンの下に迅速に物事を決め、それを支える優秀なスタッフが命令一下その決定を実行していく独裁国家=指導者国家の方が効率的かつ機動的な国家運営ができるし、危機への対処もうまくいく。時間がかかって物事が決まらず調整に手間取る民主主義国家よりもよほど優れている・・・。そんな考え方が途上国のみならず先進国の中にも広がっている。 しかし歴史は別のことを教訓として教えている。独裁=権力の集中は結局は市民的自由の抑圧と権力の腐敗を生む。どんな権力であれ、「絶対的権力は絶対的に腐敗」していく。私心のない指導者でも、どんな優秀な指導者でも「無謬」ではない。判断を誤ることは必ずある。その時、その誤りを正すメカニズムは独裁国家には内在していない。独裁国家とは権力者が犯す「過ち」を修正する仕組みのない統治システムなのだ。指導者が暴走し始めた時、それを止める術はない。 暴走する指導者によって引き起こされた惨禍を、人類は繰り返し経験してきた。民主主義とは、為政者が判断を誤った時に、平和的・合法的手段で権力者の交代を実現できるよう、人類が歴史の教訓の中から編み出した知恵の産物なのだ。 民主主義は「制度」を作っただけでは機能しない。それを支える市民、すなわち社会の中核を成す安定的な中間層が形成されていることが必要になる。この「分厚い中間層」こそ、経済成長を担い、政治の安定を支える人々なのである。 持続的に社会を発展させるには、その原動力である市民一人ひとりの力、自己実現を保障すること、つまりはそれを生み出す「市民的自由の保障」が不可欠だ。 社会保障の中核機能は、かつての救貧院や施療院のような「弱者救済-救貧」ではない。格差を是正し、経済成長の果実を公正に分配することで中間層の貧困化を未然に防ぎ、全ての人々が安んじて自分の可能性に挑戦できる社会を作ることにある。 民主主義と経済成長、社会保障は一体のものだ。民主主義を支える中間層が形成されなければ民主主義は衆愚に陥る。衆愚に陥った民主政治の行き着く先はポピュリズム、そしてファシズムだ。 「独裁」政治とは独占の進んだ資本主義に似ている。一人の勝者が市場(政治)を独占し、一握りの人たちが利益(権力)を独占する。そしてその状態を守るために、勝者は市場(政治)のルールさえも変えてしまう。 競争のない市場(政治)は、その機能を失い、停滞し、進歩が止まる。人々は活力を失い、市場(政治)は信任を失い、腐敗し衰退していく。そして「緩慢な死」に向かって進んでいくことになるのだ。 私たちは今、歴史の岐路にいるのである。 記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉
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