こくほ随想

基礎自治体主義者

私は東京生まれの東京育ち、東京以外の場所に住んだのは若い頃の国際機関勤務でパリに2年半と東京の隣県である埼玉県庁に老人福祉課長で出向した2年間だけ。要するに都会生活しか知らない人間である。

そんな「都会人間」なのだが、私は根っからの基礎自治体主義者である。介護保険創設に取り組んでいた時も、審議会でやれ国保険者だ共同事業方式(老人保健方式)だと喧々諤々いろんな制度論が交わされたが、私は終始一貫「高齢者介護は住民に最も近い基礎自治体が担うべきもの」という考え方を変えなかった。医療や福祉を担うのは基礎自治体をおいて他にはない、という基礎自治体への絶対の信頼が私の中にあったからだ。

その原点は、やはり国保にある。

私の知る国保は、平成の大合併で市町村数が半減する前、3200を超える市町村が国保保険者として活動していた時代の国保である。当時からどこの市町村でも国保財政は逼迫しており、多額の一般会計繰入でなんとか凌いでいるのが常態、2月議会では毎年のように国保料(税)の引き上げが提案され、執行部は議会で吊し上げに遭っていた。

昭和57年に老人保健制度が創設され、老人医療が医療保険者の共同事業となって国保から切り離されたことで一息ついたものの、就業構造の変化と急速な高齢化で、その後も国保財政は構造的な脆弱性を脱することができなかった。

そんな「お荷物」の国保だったが、出張などで市町村を訪ねると、国保が大好きな、というか、国保を大事にしていろんな創意工夫を凝らしながら地域住民の健康を守ろうとしているたくさんの市町村職員の方々がどこの市町村にもいることに気がついた。

医療保険制度は医療保障か医療費保障か、という議論があって、社会保障論では「医療保険は医療費保障です」と教わる。確かに医療にかかったときの費用を賄ってくれるのが医療保険だから「医療費保障」には違いない。

しかし、国保は創設の経緯から見ても、歴史的発展過程を見てもただの「費用保障」の制度ではない。国保は、住民の健康と医療そのものを確保することを目指す地域の運動の中から生まれたものなのだ。

国保発祥の地(の1つ)とされている山形県角川村は、無医村解消を目指し村営診療所を設立するために昭和11年「角川村健康保険組合」を発足させる。この組合こそ、その2年後の昭和13年に成立した旧国保法における保険者第一号である(当時は市町村直営ではなく組合方式だった)。

岩手県では旧法のもとで「医療と保険の一体化」が構想され、1930年代に医療利用組合運動が広がる中で、「国保組合が医療機関を自ら持って被保険者に充分に医療を給付すること」が決議され、運動の中核目標となる。

国保の歴史は、国保直営診療施設、国保保健婦の存在とその活動を抜きにして語ることができない。国保は地域住民の保健と医療を直接支える制度として構想され、実際に地域医療を支えてきた制度なのであり、地域住民の自治や連帯と切り離して考えることのできない住民に最も近い制度なのだ。

超高齢社会を迎えた今日、医療と介護、医療と福祉を地域において一体的に提供するシステム-地域包括ケア-の重要性が改めて認識されているが、そもそも「地域包括ケア」という言葉は後に国保直営診療施設協議会会長となられる山口昇院長率いる広島県御調町の国保病院の活動から生まれたものだ。

平成の制度改正で国保の財政単位は都道府県単位へと移行した。高齢化の進行、産業構造の変化など、厳しい時代の流れの中ではやむを得ない選択だったとは思うが、地域の医療と保健を一体的に提供するという国保の原点が失われることがないよう、基礎自治体の独自性、自律性を尊重した制度運営に心がけてほしいと思う。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

←前のページへ戻る Page Top▲