こくほ随想

日本の医療保障制度が抱える課題と今後のあり方 その2
~保険制度の原型と生命保険~

無尽や頼母子講と異なる今日的な意味での保険の概念が日本に紹介されたのは、福沢諭吉が「西洋旅案内」で示したものとされ、これは明治開国前のことである。ここで福沢は、火災保険、海上保険、健康保険と生命保険を合わせた内容を紹介している。

近代的保険は海上保険から始まるというのが通説とされるが、海上保険の原型となる仕組みとしては、江戸時代初期の慶長・元和年間の朱印船貿易における「抛金証文」というものが残っており、これは一種の船舶金融方法であった。この「抛金」という仕組みは、中国や東南アジア諸国、オランダ等との欧州間でも利用されていたとされるが、これはポルトガルより伝えられた「冒険貸借」と同様の金銭消費貸借といえよう。

この「冒険貸借」(Bottomry:船舶または船舶と積荷を対象、Respondentia:積荷のみを対象)とは、船舶と積荷を担保とする金銭消費貸借で担保物が海難事故で全損となった場合には、債務を免かれるという条件付債務であった。「冒険貸借」と「抛金」制度は、ほぼ同様の仕組みであり、この時代の日本は、グローバルスタンダードに則っていたともいえる。

しかし、鎖国により、朱印船貿易は廃止されたため、この「抛金」の制度は衰退したとされるが、江戸中期頃は、菱垣廻船や樽廻船等と呼ばれる国内沿岸の海上定期輸送が発達したことにより、「海上請負」と呼ばれる貨物保険制度が生まれた。これは、船主や廻船問屋が、荷主に対して貨物の損害に対する補償を行う制度であり、運送契約の形態を取っていたとされる。これは保険契約とは若干異なるが、明治以降の日本での海上保険の普及と理解に大きく貢献したといわれている。

一方、生命保険は、海上保険よりもかなり遅く、18世紀以降に本格的に発展したとされるが、現在の日本国内における2011年の生命保険の世帯加入率(個人年金保険を含む)は90.5%であり10世帯のうち、9世帯が何らかの生命保険商品に加入しているという「保険大国」である。

このような生命保険業界の市場規模は約40兆円であり、市場規模1位のアメリカでの生命保険普及率は78%、第2位のイギリスでは40%であることと比較すると、かなり高い。

各国の生命保険料が世界全体に占めるシェアについても日本は、米国、イギリスに次ぐ第3位で世界の生命保険市場の13.8%を占めている。生命保険料の対GDP比でも7.6%とイギリス、韓国に次ぐ第3位であり、世界屈指の生命保険大国となっている。

今日の保険制度の成立にあたって、無尽等の互助組織には投機的な要素を含むものや相互扶助、救済の色彩が強いものもあり、一方で海上保険の第一の目的は、営利であった。

このように保険制度は、「危険負担」と「融資」という2つの機能を有しており、これらの機能をうまく使い分けながら、保険という仕組みは21世紀まで発展してきたといえる。

さて、19世紀後半からは、社会政策、経済政策などの目的を達成するために、これらの保険の仕組みや性質を利用して民間(市場)では処理できないリスクを国家がサポートするようになった。

すなわち、社会保険がドイツで登場し、ビスマルク(ドイツ宰相)の社会保険3部作といわれる疾病保険(1883年)、災害保険(1884年)、疾病・老齢保険(1889年)制度が発足し、イギリスでも国民健康保険と失業保険が1812年に成立、年金保険が発足したのが1926年であった。

日本の保険制度は、ドイツに倣ったとされるが、健康保険制度が1922年に、労働者年金保険が1941年に、厚生年金保険が1944年に創設された。

そして、本格的な高齢社会の到来を受け、介護保険制度が2000年に発足したのである。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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