こくほ随想

第8回 
良書との出会い『活眼活学』

私が内閣参事官として総理官邸に勤務していた40歳頃の話である。中曽根総理、後藤田官房長官の下で、国鉄民営化や売上税(後に、竹下内閣が消費税として実現)導入が政治課題になっていて、緊張感のある毎日を送っていた。立派な政治家の側で仕事をしながら、自分ももっと成長しなければと思っていた。

その頃、題名に惹かれ手にした本が、『活眼活学』(安岡正篤著)である。その時は知らなかったが、安岡正篤先生は哲学者・思想家で、特に東洋哲学に造詣の深い人である。

『活眼活学』は中国の古典で培われた安岡正篤先生の考えが書かれている本で、肉眼と心眼の説明から始まる。要約すると、「単なる肉眼では目先しか見えません。(肉眼を超えた心眼で、)我々は、外と同時に内を見、現在と同時に過去も未来も見、現象の奥に本体を見なければなりません。(そのためには、)変化に富んだ良い交友を豊かに持つという心掛けが、第一に必要であります。次に大切なことは良い書を読むことであります。文明が進歩すればするほど、我々は心眼を開いて、我々の生活、自己というもの、我々の内面的自我というものを、もっと健全にしながら、その上に本当に理性的な、道徳的な、堅実な社会生活、集団生活、組織を持つようにせねばなりません」

私は、心眼という意識を持っていなかったので、これを真正面から説いていることが新鮮で、考え方や生き方に新しい視点をいただいたような気がした。

続いて、知識・見識・胆識について説明している。以下、要約引用である。「知識なんて、そのもの自体では力になりません。知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られます。しかし事に当たってこれを解決しようという時に、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟り等が内容として出て参ります。これが見識であります。これを実行するためには、いろいろの反対、妨害を断々乎として排し実行する知識・見識を胆識と申します。胆識があり、節操のある人物が出てこなければ、現在の難局は救われません」

私は、現在の難局に対応すべき政治家や行政官は胆識を持たなければならないと思い、人のあり方・国家公務員のあり方について深く考えさせられた。

『活眼活学』を読むまでは、中国の古典などは敬遠してきたが、長い歴史を経て読み継がれる古典には、学ぶべきことが深く蔵されている。明治維新で活躍された方々の多くは中国古典を勉強しているし、経済界の重鎮もそのような古典を数多く読んで、自分の心の糧にしている。心ある政治家も同様である。行政に携わる公務員もそうあるべきである。

私は安岡正篤先生の著書をかなり読んだが、関心を持たれた方は、表題を見て心引かれるものがあれば、是非読んでいただきたいと思う。その他、西郷隆盛の言葉をまとめた『南洲翁遺訓』、吉田松陰の言葉を分かりやすく解説したものもお薦めである。

後藤田正治・元官房長官は、若いころ『三事忠告』(中国元朝の名臣、張養浩)を読んだという。安岡正篤先生が『為政三部書』という題名で全訳されている。

土光敏夫・元経団連会長も中国古典に学んでいる。四書五経の一つ『大学』に出てくる「日に新たに、日々に新たなり」という言葉を座右の銘にしていたそうである(『清貧と復興―土光敏夫の100の言葉』出町謙著)。東芝の社長になって、事業が軌道に乗ってきたときに、部下から新しい社訓が必要という声が上がった。土光社長は「変化の激しい時代に、固定した社訓を作るのは、新しい考え方を阻むことになりかねない」と拒否したそうである。読み継がれている名著は、人としてのあり方・生き方を教えてくれる。AIの時代だからこそ、大事にしたいと思うのである。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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