こくほ随想
第6回
課題への弾力的対応
行政組織について、「新たな課題への対応力が弱い」と思っている方も多いのではないかと思う。確かにそういう面もあるけれど、工夫次第で弾力的な対応も可能なのである。古い話で恐縮だが、私が厚生省大臣官房政策課長(1994年9月~1996年7月)のときのことをお話ししたい。
1994年の通常国会は波乱の国会だった。5党8会派の細川護熙内閣が、佐川急便問題で会期の半ばで総辞職し、羽田孜内閣が受け継いだ。6月23日に予算案が成立し(私が保険局企画課長として担当した健康保険法改正案も成立)、その直後に内閣不信任決議案が上程され、羽田内閣は6月25日に衆議院議長に内閣総辞職を通知した。6月29日の国会で村山富市社会党委員長が総理大臣に指名され、翌30日に自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権が発足した。驚きを超えた展開であった。
連立与党の意思決定機関として「与党責任者会議」が設置された。加えて、社会党とさきがけの強い要請により「与党福祉プロジェクト(PT)」という社会保障政策に係る協議の場が設けられた。国会に関わる業務は大臣官房総務課の担当であるので、与党福祉PTも総務課がフォローすることになった。総務課は厚生省提出の多くの改正法案の国会審議を促進するなど多忙であり、与党福祉PTのフォローはかなり負担のように見えた。
9月の人事異動で大臣官房政策課長となった私は、総務課長に「与党福祉PTは政策協議の場だから政策課でフォローしましょうか」と提案したら、「ありがたい」との返事だった。事務次官・大臣官房長の了解を取り、政策課の追加業務として課員に説明して担当を決めた。早朝の会議も多く課員には負担をかけることとなったが、結果として、厚生省の重要政策はすべて政策課を通じて与党福祉PTに説明することになるので、省内での政策課の存在感は大きくなった。意欲ある若手は政策課に配属されたいと言っていたそうである。
翌1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生した。災害対策の省内の取りまとめは大臣官房総務課の仕事であるが、この災害は次元が異なる。しばらくは様子を見ていたが、私は、事務次官・大臣官房長に特別対策室を設けることを提案した。大臣官房の各課から2人ずつ供出して臨時の災害対策総括室をつくり、私がその責任者になった。政策課長室の応接セットなどを撤去し、事務机を詰め込んで、そこを司令塔とした。約1週間後には室を立ち上げ、厚生省阪神淡路大震災復興対策本部の事務局となった。当時、厚生省は災害対策基本法を所管していたので、医療や福祉や水道だけでなく、被災者支援の初動的な分野も受け持っており、担当部局の忙しさは極限に達していた。負担を少しでも分かち合い、被災者への対応を可能な限り円滑に行う、という思いで、24時間態勢で頑張った。
翌1996年1月に橋本龍太郎内閣が発足し、菅直人議員が厚生大臣に就任した。前任の森井忠良厚生大臣から「エイズ研究班の資料」探しを指示されていたが、菅厚生大臣のときにそれが見つかった。血液製剤のあり方が厳しく糾弾され、マスコミには「菅・官戦争」と言われ、調査と釈明が繰り返されるという状況にあった。私は、事務次官・大臣官房長に再発防止策をまとめるべきだと進言して、事務次官をヘッドに関係局長をメンバーとするチームを立ち上げてもらい、私が事務局長となり、実質的な取りまとめを担当した。関係局長も積極的に対策案・改善案を提出してくれて、2ヶ月余りでかなり踏み込んだ内容の報告書をまとめた。この検討成果を踏まえ、薬務局が一連の改正法案をとりまとめ、2002年の国会で成立している。
変化の時代、新たな課題が次々と生ずる時代だから、行政は積極的かつ弾力的な対応を心すべきだと思う。
記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉