こくほ随想
第4回
中国古典との出会い
高校二年の時の話である。ある先生が「孔子は『民は之に由(よ)らしむ可し。之を知らしむ可からず』、国民は黙ってついて来させるべきで、何も知らせるべきではない、と言っている。こんな非民主的な考えの東洋思想など学んではダメだ」と言われた。私は先生の言うことを守り、ずっと中国の古典に触れないでいた。
40歳頃、電車に乗るときにキヨスクで本を買った。『活眼活学』(安岡正篤著)と『人生の極意』(松原泰道著)。薄い文庫本である。面白そうな標題なので買ったのだが、前者は東洋哲学、後者は仏教の本であった。この二つの本に出会えたのは真に幸運であった。
安岡正篤氏の説明では、冒頭の孔子の言葉の意味は全く違っていた。「国民に十年・百年の計を理解させることはなかなかできないが、あの人のやることだからついていくのだと民衆が尊敬し、信頼されるようにはなれる」という意味、つまり、為政者のあるべき姿勢を述べたものとのことであった。
当時国家公務員であった私は、大臣の下で行政を担当する者として、国民から信頼されるような人間にならなければならないと、強く思った。そして、誰の言うことであっても安易に鵜呑みにせず、自分自身でしっかり確かめなければいけないとの思いを深くした。これ以降、東洋哲学系の本を読むようになった。
論語の冒頭は「学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや」である。この言葉に触れた中学生のときは、意味が全く分からなかった。40代半ばに読んだ本に「習う」の字の成り立ちが書かれていた。「習」は、雛鳥が巣に立ち上がって羽をバタバタさせている姿を字にしたもので、白は雛鳥のお腹である。「なるほど、飛ぶ練習か」と思ったが、二、三年後に、ふと次のようなことに気がついた。もし雛鳥が羽をバタバタさせることを習っても、飛ぶことを身に付けなければ、餌も取れず、死んでしまう。そうか、「習う」は命懸けでやること、命懸けで身に付けることが「習う」なんだ。
私は埼玉医科大学の特任教授をしている。と言っても、1年生、2年生、3年生に一コマずつ教えているだけであるが、冒頭に論語の「学ぶ・習う」の話をする。君たちは先達の指導のもとに医学医術を学び、習う。身に付けて、医師として実践する。困っている患者を治療する。病気が治り、患者は喜ぶ。そうなれば治した医師だって嬉しい。「学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや」である。学んで習って、実践して結果を出して、患者にも自分にも説(よろこ)ばしい医師になって欲しい、と。
論語にこんな一節がある。孔子が弟子たちに「吾が道は一以て之を貫く」と言って、部屋を出ていく。意味の分からない弟子たちが、高弟の曾子に尋ねる。曾子は言う「夫子(=先生)の道は忠恕のみ」。
孔子を始祖とする思考の体系を儒教と言うが、仁義礼智信は「儒教の五常」と言われている。常は「いつまでも変わらず大事なもの」という意味である。忠恕はこの五文字に入っていないが、私は忠恕≒仁と理解している。
忠という字は、誠(誠実)という意味であり、「心の真ん中」と書く。人の心の真ん中は誰でも誠実なのであるという、人間肯定の字である。恕は「心の如く」という字で、思いやりという意味である。誠実な心のままに行うことが思いやりであるという、これまた人間肯定の字である。私はこの忠恕という言葉が好きである。
儒教関係の本を読んでいくと、王陽明という明の時代の行政官・軍人・哲学者を知ることになる。実践倫理を説いた人で、「知行合一」などを主張した。知れば知るほど、世の中にこんな立派で素晴らしい人がいるのかと、驚いた。できれば『小説王陽明』(芝豪著)を読んでいただきたいと思う。
記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉