こくほ随想

夏の夜

夏が来ると思い出すのは、約20年前、厚生労働省から総務省行政管理局に出向した時のことである。ここは各省庁から定員や組織の要求を受けて査定をするところで(というのはつまり、翌年度の各省庁の局や課の数、それぞれに張り付く職員の数を決めるということ)、この要求は予算と同様毎年8月末までに各省庁から提出されることになっていた。したがってそれが来るまでこっちは自律的に仕事ができ(つまりヒマで)、厚労省にいたときの、予算や定員の要求に向けて省内の会議があったり与党への根回しがあったり、暑いさなかにどうしてこうやって駆けずり回らなければならないのかという状態とは雲泥の差があった。何事も、さばく方の都合に合わせて日程ができているのだなあと改めて思ってみたりしたものである。あの頃は良い時代だったので、今は査定側にもヒマなんてないということかも知れないが、しかし要求する側の方が無理なスケジュールに耐えなければならないという事情は昔も今も同じではないかと思う。

とは言っても8月には旧のお盆もあり、厚労省でも交代で夏休みを何日か取ることになっていた。同じ課の職員の間で日程を繰り合わせて休みの日を決めるので、なかなか思うようにならないことも多い。私は共働きなので、妻の会社の夏休みと合わせて休みにしたいと思うのだが、結果的にずれてしまうこともままあった。

しかしその結果、平日の昼に妻が出かけたあとに一人でぼんやりしているというのも、それはそれでなかなか良いものだと思ったりしたものである。家族でそろって行楽地に出かけて一日を過ごすのも楽しく有意義ではあるけれど、日中なんにもせずにぼうっとしている方が夏休みを取るということの本旨に合っているのではないかと今でも時々思ったりする。

そうして昼はぼんやりしていても、夜になると少しは涼しくなることもあって、いくらか人心地がつくような気がしてくる。夏は夜、とは枕草子だけでなく、西洋でも不思議と夏といえば夜とくるのが多い。シェークスピアしかり(『真夏の夜の夢』)、ベルリオーズしかり(歌曲集『夏の夜』)で、昼の暑さのせいで自然、行動が夜に傾くというだけでなくて、洋の東西を通じ夏の夜には独特の情趣があり、それに短いということもことさらにその情趣とそれを惜しむ気持ちを強くしているのではないだろうか。西洋のことはともかく、我が国ではお祭り、夜店、花火に盆踊りと、夏の夜の楽しみはどれも、それが終わった時の不思議な余韻と寂しさということで共通しているように思うのは私だけではないに違いない。

過去2年間は新型コロナウイルス感染症のせいでこうしたものがほとんど中止になってしまったが、ワクチン接種も進んで今年は、気を付けながらも少しずつ復活してきているようである。夏の夜をこうした地域の行事の中で過ごすことで得られる楽しさや寂しさというものは本当に貴重なことなのだ。それを味わうのはそのままそれぞれの地域や歴史の中に自分も存在することを味わうことであり、代々の生を受け継いで今そこに暮らしていることの手応えを与えてもらうということであるに違いない。――というところで少々地域や自治体というものの関わりも出てきたけれど、今回は国保と関係ないことばかりで終わってしまいそうである。夏休みということでお許しをいただきたい。

ぼうっとしている、といえば邯鄲の夢はあれはいつの季節のことなのだろうか。昼寝をしている間に粥を炊くので、寒い季節ではないとしても、今のような酷暑の夏ではないような気もする。しかしコロナ禍で静かな夏の夜、短夜に夢を結んで盧生の気分を味わうのも、夏の夜の過ごし方としてまた良いことではないだろうか。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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