こくほ随想

感染症対策の難しさについて

新型コロナウイルス感染症が発生してからおよそ2年半になる。最初の頃に比べればこの病気の性質もかなり解明され、ワクチンも治療薬もできてきてはいるが、重症化すれば命を脅かす病気であることは変わりなく、日常生活でも制約を強いられる状況が続いている。今回は他の災害対応と比べて感染症対策が持つ難しさについて、考えてみたい。

感染症対策とはどういうことかについて、最初にまとめておこう。今回の新型コロナのように海外で発生した場合には、まず、水際対策で侵入をできるだけ遅らせる。国内で発生が始まれば、接触の回避など感染拡大防止策を講じ、患者の増加のスピードをできるだけ抑える。そしてその間に医療体制を強化する。併せてワクチンや治療薬の開発を急ぐ。患者増加のスピードを抑えれば抑えるほど流行のピークも下げることができ、医療体制をつくるための時間も稼げることになるので、感染拡大防止策をしっかりやることはとても重要だ。

そのために一時的に生活や経済活動の制限を行わざるを得ないが、しかし他の災害、例えば地震や水害などと比べると、この制限が及ぶ範囲はとてつもなく広い。地域的にも時間的にもそうだ、というだけでなく、見えないところで感染は起き続けるので、地域や時間の範囲が誰にもはっきりとは見えない。そしてそのことが制約感を強くする。さらには、他の災害の時には物理的にできないことが制約になるのに対して、感染症対策では、一見普通にできること(会食や旅行など)を我慢してもらわなければならない。

したがって、こうした制限を行わなければならないということについてどうやって国民の理解を得るかがとても重要になる。そのために、専門家の知識をきちんと活用しつつ最低限の制限としてこれだけはお願いしたいという、納得感のある説明が必要になる。一方で、そうした制限を受け入れてもらうための経済的支援などの施策も必要になる。

今回の新型コロナ対策において全体としてこれがうまくいったと言えるかどうかは、最終的に感染状況と、経済面を含めて社会が受けたダメージの評価とを踏まえて、さらには国際的にみて我が国の状況がどうだったかといった点なども見ながら、評価されることになるだろうと思う。

しかし、途中でずいぶん言われて「説明が難しいなあ」と思ったのは、「厚労省や医療界の対応が遅いから経済活動が制限を強いられる」という批判だった。この問題提起は、経済活動を制限して感染拡大を防止することが医療体制を作るための時間稼ぎだ、という点から見れば、もっとものように見える。しかし感染症の拡大するスピードが病院の受け入れ態勢を作るスピードよりも比較にならないほど早い、という現実を前にすれば、明らかに的外れの批判だ。実際に厚労省や医療界の対応が遅かったという批判から逃げるべきではないと思うが、それがどうあれ、経済活動の一定の制限は、感染者数を全体として少なくするためにも、まずは必要なことなのである。

誰も免疫を持っていない新しい感染症はネズミ算的に拡大し得る一方で、入院している人を退院させて空けるベッドは足し算的にしか増えない。あらかじめ備えるなら多くのベッドを空けた状態で費用をかけて維持しておかなければならない。ということは、考えてみればわかりそうなことだけれども、そうはならないという一種非科学的な期待感のようなものが、社会にあったのではないかと思う。厚労省や医療界の対応についても、不十分な点をひとつひとつ洗い出すだけでなく、それがなぜそうなったのかということを振り返ることが、今後より適切な対策をとるために大切だろう。社会的な力学も視野に入れながら科学的に対応すること。感染症対策はなかなか容易ではない。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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