こくほ随想

尊厳死法案

深沢七郎の『楢山節考』は、民間伝承の棄老伝説をテーマとした小説である。

主人公のおりんは69歳だが、まだ元気である。普通、姥捨といえばいやいやながら捨てられる老人を想像しがちだが、おりんはむしろ進んで楢山に捨てられようとする。そのため、まだ丈夫な歯を自分で折ったりもする。それというのも、自分の住む村には食料が乏しく、楢山に老人を捨てることが村の掟だからである。老人が元気で長生きで、村の食糧をいつまでも食べることは、恥ずかしいことなのである。

おりんの息子の辰平は、村の掟を知りながらも、いつまでもながく家にとどまっていてもらいたいと思っている。しかし辰平も息子のけさ吉が隣家の娘と通じ子を身ごもらせるに至っては、おりんを楢山に捨てに行かざるを得ない。

おりんを楢山に捨てに行くと、折から、雪が降ってくる。雪が降れば、苦しまずに死ぬことができるので「運がいい」のである。家に戻った辰平は、「おばあやんはまあ運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」と悦に入るように感心しているのである。

さて、尊厳死法案(正式には「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」)については、すでに超党派の国会議員連盟の案が策定されているのだが、いまだに国会提出には至っていない。この法律案は、かなり大胆に要約すると、①医師は、患者が延命措置の不開始(別案は「延命措置の中止等」)を希望する旨の意思を書面等により表示している場合であり、かつ、その患者が終末期にあると判定を受けた場合には、延命措置の不開始(中止等)をすることができる、②この延命措置の不開始(中止等)については、民事上、刑事上、行政上の責任を問われない、ということである。

さらに単純化すると、患者のリビングウィルがあれば、延命措置をしなくても医師は免責されるということである。

それでは、このような終末期における自らの死を自らの意思に係らしめようとする社会的規範とは何なのだろうか。

『楢山節考』の世界では、姥捨は、村の掟であり、村の存続に必要なことである。食料生産が一定の世界では、新しい生命が生まれればこれを養うため、老人が楢山に姥捨にされるということは、当然のこととされている。だから、おりんも当然のこととして、楢山へ行こうとするのだし、息子の辰平もおりんを捨ててきても罰せられることはない。

一方、尊厳死法案の世界では、自分の意思により延命措置を不開始(中止等)にして、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えるのであるから、医師が免責されるという構成である。この構成の中では、自己決定であるから許されるということだが、それは、自己決定したその人の選択の問題ではあろうが、そのような自己決定を認める社会的規範あるいは法律とする根拠は何であるのかがよくわからないのである。

もう少し言うならば、いろいろな条件を付けても、自己決定だから許すというのでは、社会的規範としては落ち着きが悪いということである。姥捨が許されるのは、社会全体の存続のためである。自己決定の尊厳死が許されるのは、社会全体の存続のためであるというなら、むしろ話は分かりやすい。しかし、このような法的な構成は、基本的人権が最も大事な価値とされる現代社会では認められるべくもない。それでは、せめて家族の同意を条件に尊厳死を認めてはどうかという議論が出てくるのだが、家族と本人の利益が相反する場合もあり、問題が複雑化する。

結局、諸外国で例があるように自己決定だからいいではないかとなるのだが、それを法律にするということになると、日本では多くの国民に抵抗感があり、堂々巡りになってしまっている。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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