こくほ随想
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公衆衛生体制の興隆時代が産業革命を迎える頃、工場生産がすすみ、人口が都市に集中する中で、人類は初めてひとつの深刻な事態に直面した。不衛生という事態である。そして不衛生であれば疾病、疾病になれば貧困、貧困であれば不衛生になる。そういう悪循環の状況が生まれてきた。この悪循環は、現代の社会もまた、そのような状況の中にあることから、不衛生には保健、疾病には医療、貧困には福祉という体制を構築して対応している。 社会がそのような悪循環の中にあることを初めて報告したのはペータ・フランク(1745-1821)である。オーストリア、ハプスブルグ王朝ヨゼフ2世の時代、国王の富国健民政策を背景に活躍、1779年に『完全なメディカルポリースの体系』を発表した。フランクは、冒頭で「メディカルポリースは、多くの人たちが集まって生活していることから生ずる有害な現象から、人々や彼らの家畜を守る方式である」と述べている。多くの人たちが集まって生活していることから生ずる有害な現象という問題意識から、現代の公衆衛生は始まったことがわかる。人々の健康課題は人々の「過誤」によるものではない。社会にある疾病は、無知と貧困を背景として人々が巻き込まれることによっておこる。だからメディカルポリース、つまり公的医師の関与が必要であると彼は主張した。この主張にこそ人類の社会医学の原点がある。 次いで現れたのがエドウィン・チャドウィック(1800-1890)である。イギリスは、世界の工場といわれる状況の中で、労働人口の確保が社会の至上命令となり、労働者が安易に救貧法に依拠することを防ぐため、1834年、改正救貧法が制定された。法案を起草したのがチャドウィックである。この法律の施行の中で、彼は文字どおり貧困の背景に疾病、疾病の背景に不衛生が存在すると認識した。そしてイギリス全土の不衛生の実態について悉皆的な調査を行い、1842年に『大英国の労働人口の衛生状態』を発表した。彼はこの調査によって、衛生課題は王国のあらゆる場所の住民の中にはびこっていること、また高度な経済の繁栄も流行病の攻撃に対する免疫を与えるものではないことを明らかにして、公衆衛生は、全ての地域、全ての人口を対象としなければならないこと、そのためその事業を担うのは自治体であると考えた。彼が起草し制定されたのが1848年の公衆衛生法である。この法律によって中央に保健総局、地方に地方保健局、保健局に保健医官を置くという公衆衛生体制が生まれた。 イギリスでは1855年に、イギリス医師会が誕生した。新興の医師会の立場を代表して登場したのが、ヘンリー・ラムゼイ(1809-1876)である。1856年に『国家医学論』を発表した。彼は、人間の健康管理についてまで、救貧法体制のもとにおくと、制度に依拠させないようにしようとする、救貧法の抑止主義がはたらいて、対応が手遅れになってしまう、結果として福祉の負担をも増大させることになると主張した。ラムゼイは、国家医学という理念に立って、公衆衛生の体制、公衆衛生を担う保健医官を救貧法体制から独立させることを主張し、達成した。 ジョン・シモン(1816-1904)が1890年に『イギリスの衛生制度』を発表した。シモンはロンドン市の保健医官の職を務めた経験から公衆衛生の推進に対する社会の個々の成員の責任の重要性を強調した。制度に依拠しがちな公衆衛生に対し、各個人の知恵を生かすことの意義を訴えて今日の公衆衛生につながる体制を集大成した。彼が起草した1875年の公衆衛生法は1936年まで存在して世界の公衆衛生法のモデルとなった。 人類の公衆衛生の歴史において、フランクは「社会医学の父」、チャドウィックは「公衆衛生体制の父」、ラムゼイは「公衆衛生医の父」、シモンは「公衆衛生思想の父」と呼ぶことができるであろう。 記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉
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