こくほ随想
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健康保険制度の誕生人類の歴史で初めて、健康保険制度が実施されたのは、ドイツである。1883年に、時の宰相ビスマルクによって労働者を対象にした疾病保険制度(Kranken-versicherung)が制定された。 ドイツでは、1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で、プロイセン王ヴィルヘルムⅠ世が帝冠を受け、ドイツ帝国の成立が宣言された。新帝国は、22の君主国と3つの自由都市からなる連邦で、国家主権は集団としての連邦君主の手にあった。こうして多数の君主国の割拠によって分断された国のあり方に対し、国内体制の統一に向けて、巧みな術策を駆使して革新的な政策をすすめたのがビスマルクである。 長い伝統の中で根強い力を有するカトリック勢力をビスマルクは恐るべき内敵とみていたとされている。彼の教会攻撃は、1873年には最高潮に達し、教会との闘争は「文化闘争」と呼ばれた。しかしカトリックよりはるかに手ごわいのは、社会主義の理念に立った労働者の台頭である。ビスマルクは戦線を変更せざるをえなくなってきた。1879年にカトリック勢力との闘争は終焉し、弾圧法もすべて撤回された。また、領内の農民を支配し、大きな勢力を保持してきたのは、ユンカーと呼ばれた大農場主たちである。ビスマルクは1881年には、そのユンカーの代表をプロイセンの内務大臣に任命して、社会主義弾圧の政策を強力にすすめた。 こうした環境の中で、国の統一に向けて強力に中央化を目指すビスマルクは、地方に広く根をはる既存勢力に依存しながらも、国内統一のための施策の遂行には、自らの力を支えてくれる基盤を構築する必要があった。彼は、新興勢力である、産業ブルジョアジーの力に着目して、全国統一に向けた制度の実施を精力的にすすめたのである。そうして生まれたのが、1871年の貨幣の統一、72年の度量衡制度、73年の郵便制度、銀行制度の統一、75年の中央銀行の設立、77年の特許法の発布などであり、83年に疾病保険法、84年に災害保険法が制定された。 こうして生まれた疾病保険制度は、社会主義の弾圧政策がムチであったとすれば、アメであったということは周知のとおりである。疾病保険制度によって、経営者は保険料の50%負担によって労働者に恩をうり、企業への帰属意識をつくることができた。そして経営者は新興勢力として、制度の運営を通じて、国内統一に向かう新しい帝国を担うという、より大きな連帯意識を育てることができた。 ビスマルクの疾病保険制度は、それまでいわば個々の職場の共済活動として実施されてきた機能を、国家のシステムの上にのせて、新しい社会創設の確かな道を開くことに貢献したところに最も大きな意義があったということができる。 保険制度では、社会の個々の既存の勢力を温存しながら新しい体制をつくるというのが基本の特徴である。「医師」に対しても、その勢力が温存される中で、国家との自由契約によって、医療給付を担うことを可能とするという方式が取り入れられたのである。 ここで生まれた健康保険制度は、疾病保険制度の名前のとおり、労働者の就労を困難とし、生活破綻を招く「疾病」に対する、「医師」による治療の提供を制度化したものである。しかし経営者にとって課題となったのは、「疾病」そのものへの対応ではなく、労働者の就労を困難とする「疾病」がもたらす「症状」の存在であったはずである。こうして「症状」の観察から始まる西洋医学の伝統と、「症状」に対応したいという健康保険制度の思惑が一体となって、人類の医療を担う体制が生まれ、今日まで堅持されてきた。だから「疾病」といっても「症状」である。こうして就労を困難とするような「症状」の存在が、健康保険制度利用の条件となり、制度の特徴となったことは特記すべきことであると思う。 記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉
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