こくほ随想

人命は地球より重いのか

「人命は地球より重い」――1977年秋。ダッカの日航機ハイジャックの際、犯人側が身代金と逮捕されていた仲間の釈放を求めたさい、時の総理大臣だった福田赳夫が、犯人側の要求を飲み、人質を解放したさい「超法規的措置」として実行し、そのさいに述べたのが、この「人命は地球より重い」という言葉だった。当時、私は、こんなことをして国際的に乗り切れるのかと不思議に思った。なにしろ、当時の日本は世界で最高に近い医療保障が行なわれ、企業の健保は自己負担はほとんどゼロといってもいいぐらい優遇されていた時代であった。

しかし、私は、この地球より重いという言葉に多少の違和感がないわけではなかった。人命というのはそんなに尊重されるべきものなのだろうかと若干疑問に思った。なにしろ昭和一ケタ生まれの私たちの時代は、ほんの30年前には、私たちの命は「一銭五厘」といわれていたものである。これは、いまの時代の人たちには理解に苦しむ言葉だと思うので、少し説明をさせてもらうと、戦時中のハガキ1枚の値段は一銭五厘だった(現在は50円)。召集令状1枚で軍隊に徴集される時代で、この召集令状には赤い色が付いていて別名“赤紙”とも呼ばれていたが、この一銭五厘の葉書でみんな召集されたのでそう呼ばれていた。事実、軍隊に入ると「お前らは一銭五厘で呼び出せるが、軍馬は何十円と払っているので大事にせよ」といわれたそうである。一銭五厘が、わずか30年の間に「地球より重い」というところまで“出世”するのはちと異常ではないかと、当時の私は思った。

この問題は以後ずっと頭の片隅にあって、「ほんとうに人命はそんなに貴重なのかな」と30年近く思い続けてきたが、近頃は「人命は地球より重い」という人は影をひそめた。恐らく現在では、人命は地球より重いと心底から思っている日本人は1人もいなくなっているのだと思う。私はどうもこの言葉の本質は、思想などと呼ばれるようなものではなくて、単なる人間の「己惚れ(うぬぼれ)」なのではないかと思う。


私たちは小さい時から「人間は万物の霊長である」と教えられてきた。たしかに“地球の覇者”であることはまちがいない。しかし、そのことによって、地球をわがもの顔に闊歩し、すべての点で人間は勝(すぐ)れているのだと思っている人が多い。たしかに人間の脳の中でも「前頭葉」と呼ばれている(ものをつくり出したり考えたりする部分)、つまり“創造の座”が特別に発達していることにより、地球上で大きな顔をしているわけである。

人間は地球上であらゆる点で最高のものを持っているわけではない。最も頭脳がすぐれていると思っている人が多いが、たとえば、5歳のチンパンジーに、1から10までの数字の一覧を見せて、すぐにそれを伏せても、チンパンジーはどの数字がどこにあったかを覚えている(京大霊長類研究所)。私たちが遊んでいるトランプの神経衰弱と呼ばれているゲームをチンパンジーとやると勝てる見込みはないのである。これは、チンパンジーが樹上で果実などを見付けた場合、どこにうまそうな果実ができているかが瞬時にわかり、それが脳の中に仕舞われても、いつでも出てきて、果実の場所がわかるというわけである。

人間にない能力を動物たちはいろいろと持っている。渡り鳥の長距離飛行、熊の冬眠、サカナの帰巣能力、多くの動物の走力など、いずれも人間をはるかに凌駕した能力を持っている。かつて日本医師会長をしていた武見太郎は「医師ぐらいえらい者はいない」と繰り返して会員に言ったことにより、医師の間に、強い職業上の己惚れが生じた。人命は地球より重いと考えて行動するのは悪くないが、人命至上主義のようになっても、かえって人間はバランスを失なって行方を見失なうことになるのではないだろうか。「身を鴻毛(こうもう)の軽きに致す」という言葉もある。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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