こくほ随想

社会保障の規模
何を保障し、何を保障しないか

「2025年に、いまのような社会保障を続けていることのできる国はいくつあるだろうか」というテーマが、経済学者や政治家の間でいわれ始めているという。別の見方をすると、社会保障に黄色の信号が灯りはじめたともいえるだろう。たしかにショッキングな話ではあるが、2004年ごろに、アメリカの雑誌が「2015年、スウェーデンが社会保障から全面撤退」という未来特集を組んで世界中の話題になったこともあり、そう目新しい話というわけでもないという見方もできる。

社会保障を実現した国を見ると、日本のように高度経済成長というバックグラウンドのあった国や、社会党政権が比較的長く天下を取った国(スウェーデン等)が多い。それと、人口があまり多くない国で実現しており、超大国で社会保障を実現した国は旧ソ連ぐらいしかない。人口の限度は恐らく一億人ちょっとというところではないだろうか。

先走ったことをいっては悪いかもしれないが、私は中国では、とても日本のような社会保障の網を張ることはできないし、中国政府もそれは考えていないのではないか。

ところで、一度社会保障を始めた国が、これを中止するというようなのは容易なことではない。人間というのは「易きに付く生物」である。かつて美濃部東京都知事が「老人医療の無料化」を実施したことがある。これはごく短期間で高度経済成長が止まって、都は進退谷まったが、一時は国もこれに習って老人医療を無料化した。これはとてもできるものではない。徐々に有料化に戻っていかざるを得なかったが、そのために十年の歳月を要した。


日本や北欧の場合、国の財政が窮乏しているからといって、一挙に廃止することはできない。徐々にワクを縮めて行くという方法以外にはできないだろう。すでに現在の日本の医療が行なっているように自己負担率を上げていくとか、国庫負担を減らすといったことを順次、きびしくやっていくという方法である。これはひとつの方法ではあるが、小泉内閣のように、こういったことを大胆にやると、医療の一部に破綻が起き、そこから崩壊への道を歩むことになるのは、日本の2000年代の後半を見ると一目瞭然である。

そこで考えられることは、基本的な考え方として「何を保障し、何を保障しなくてもいいか」という点をきっちりと考えてみるという方法がある。私見をいわせてもらえば、もともと社会保障というのは、一人の人間が困ったときに助けるというのを本旨としているはずである。だから失職したときに手をさしのべるとか、重病で働けなくなったときにきっちりと保障するが、軽医療は自己負担にするとかを考えるべきだと思う。軽いときに医師の診療を受けておかないと、どうしても重病になって診療を受けるようになるので、軽医療を有料化すべきでないという根強い反発もある。しかし、年に一回の健診を義務づければ、重病の見落としはある程度防げるし、別の見方をすると、軽医療で医師にかかったとき、その医師に重病の芽を見落とされていたら、何もならないではないかという意見もある。

いずれにしてもなんらかの形で、不足する医療費を自己負担にせざるを得ない。それでも診療費の五割以上の自己負担は認めないとか、現行の「高額療養費制度」は死守するとか、いろいろの方法は残されるだろう。2025年になると、すっぱりと健康保険そのものをなくすというようなことはできないと思う。社会保障の規模と自己負担をめぐる論議がこれから活発になるのだろう。そのさい、とくに重要だと思うのは、財政面からだけで議論するのでなく、社会保障全体をどうするかを検討し、それを実現するには、財政をどう構築するかを考えるべきである。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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