認知症の人

超高齢社会を迎えて、日本の医療は大きな潮流の変化に直面している。この変化は、キュアからケアへ、健康の回復から自立支援へ、疾患モデルから障害モデルへ、専門家から多職種のチームへ、病院・施設から地域ケアへという変化である。2015年に成立した「医療・介護総合確保推進法」でも、病院機能の集約化を図り、平均在院日数を短縮する一方、地域包括ケアシステムを整備し、疾病や障害をもっても地域で生活できる社会が目指されている。

今後の認知症施策の方向も、この大きな潮流の変化の例外ではない。認知症になっても、本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れた地域のよい環境で暮らし続けることのできる社会の実現が基本目標とされている。

認知症の歴史をたどると、有吉佐和子の『恍惚の人』が出版され、異次元の人ととらえられた時期、精神病患者ととらえられていた時期、介護の対象ととらえられた時期と大きく変遷しており、現在は、地域包括ケアの対象と考えられている。

「認知症の人」についても、その呼び方自体に歴史的な変遷がある。大まかに言えば、「恍惚の人」「呆け老人」「痴呆性老人」「認知症患者」「認知症の人」と変遷してきた。こういった変遷の背景には、「認知症の人」に対する差別や偏見があるのではないかといった批判や、単に医療の対象としての患者と見るだけでは現にある家族や社会の問題の解決になっていないのではないかという批判がある。もう少し踏み込んで言うと、「呆け」「痴呆」という言葉は偏見ではないかという批判であり、「患者」として医療が施されても軽度であれば進行を遅らせることはできるが、完治することは難しいのだから、むしろ認知症の人が家族とともに生活していくことに対する支援がおろそかになっているのではないかという批判である。

そこで今は、「認知症の人」という言い方になっているのだが、この言い方に対しても、認知症は症状の一つに過ぎないのに、「認知症の人」では、まるで全人格が認知症みたいで不適切ではないか、「認知症がある人」ではないかという意見がある。確かに、英語では「person with dementia」であるが。

この際、認知症に関する基本法を作ってはどうかという意見がある。しかし、この問題の本質を「病気」と見るか「人」と見るかでは、法律名までが変わってしまう大きな差異が生じる。

基本法というのは、各般の施策の元となる基本理念を規定する法律であり、教育基本法、科学技術基本法などいろいろな基本法がある。病気に関しては、例えば、がんの場合は、がん対策基本法である。これにはあまり違和感はないだろう。がん撲滅について異議を唱える人はまずいないと思われる。しかし、障害の場合は、障害者対策基本法では違和感がある。社会が障害者を対策と考えるとしたら、障害者は無用な存在だという差別意識があることになる。だから、障害の場合は、障害者基本法となっている。

認知症についてもこれと同じような構造がある。認知症対策基本法では、認知症の人は対策の対象となってしまい、認知症の人とその家族にはどこか違和感が生じてくる。その前に、人として尊重してほしいという気持ちがある。もちろん、認知症の研究が進み、医学的に予防法や治療法が確立していくことは皆が望んでいる。しかし、予防法や治療法が確立されるまでに、いまある認知症の人を尊重し、どう支援していくかということも、社会に課せられた課題である。そうなると「認知症の人基本法」となってくる。

認知症というのは長寿社会の宿命のようなところがある。そうそう簡単には解決しない事柄なのだろう。しかし、これまでの歴史が示すように、社会的な対応についても、一歩一歩前に進んでいくことはできるだろう。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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