こくほ随想

「捨命住寿」 ―死出の旅路の行き先―

国や自治体がコミュニティに与える機能の弱体化とコミュニティにおける「公」が占める場が少なくなるという循環の進展の中で、国は自らが整備してきた病床を適正化という大義の下で大幅な縮減を図ろうとしている。これは、「地域医療ビジョン」と呼ばれ、都道府県が地域における効率的・効果的な医療提供体制の再構築を図るために2025年までに実施すべきとされ、この遂行にあたってはガイドラインも示されている。

地域の実状にあった医療提供体制構築を目指すことと記されているものの、実質的には、ほとんどの県において病床機能の最適化という病床数の削減が求められている。これにより、都道府県は医療資源を円滑に運用するための新たなマネジメントシステムを構築せねばならなくなっている。とりわけ慢性期病床においては、療養病床の入院受療率が最も低い『県』の水準まで低下させることが目標となっており、現行34万床を概ね20万床程度にすることとされている。これは、これらの病院が担ってきた終末期の療養や看取り機能を地域に移転させねばならないことを意味している。

また、ガイドラインには『地域医療構想の策定に当たっては、医療提供体制の構築だけではなく、地域包括ケアシステムの構築についても見据える必要があり、……以下略』と書かれている。つまり、地域医療ビジョンの推進の前提として地域包括ケアシステムの構築が必要と考えられているのである。

さて、わが国における医療資源や終末期を巡る医療や介護といった機能の地域への移転をも含めた地域包括ケアシステムが今後、目指すべきところは、地域で人々が幸せに生きぬくことだけを支援するわけではない。

なぜなら、このシステムには、ここ30年で一般的となった死の迎え方、つまり、多くの国民が病院で死を迎えるという実態から、在宅での死を一般化するという大きな変革への対応が求められているからである。

今日、終末期の人々が死を受け入れる準備として終活という言葉が生まれ、エンディングノート等、日常的な会話の中に死への旅立ちに際しての支援のあり方が模索されるようになった。だが、これらの準備は世俗における命のおわりを意味するだけであり、この次の寿(いのち)への準備は含まれていない。

「捨命住寿」、これは遊行経という仏陀最後の説法の旅を記した経典にのみ、存在するテキストである。「命を捨てて寿に住む」こと、このわかったような、わからないようなテキストは、捨て去る「命」も、住す「寿」も「いのち」ということであり、仏陀の入滅、仏陀がこの世の命をなくすこと、それによって終わらない寿を得たという大きな転回を表している。だが、この転回は仏陀だからこそできうることであり、この命に関わる根本的、劇的な転回を普通の人は到底感得しえないのではないかと思ってきた。

現世の最期に「十分、生きることができた、もう十分だ」と安心して死を迎えられる人は、それほど多くないのではなかろうか。これは自らの最期を自らが決定できない終末期医療の今日的姿によるものだけでなく、自らの「いのち」のゆくえを考えることを多くの人々が行わなくなってきた、行えなくなってきたことによる。だからこそ、哲学的な問いに基づくシステムのあり方を検討することについては躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないと思ってきた。

しかし、私は最近、95歳の誠に可愛らしい老女から「先生、私は、この世に生きることにあきました。早く、次の世をみにいきたいのです」と、無邪気に話しかけられ、人は、次の世の寿をすでに知っている。だからこそ、世俗の命の終わりを受け入れることができ、人の世は営々と続いてきたのではなかろうかと得心した。これからは、「捨命住寿」、死出の旅路の行き先を楽しみにできるコミュニティ創りをしていきたいものである。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

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