こくほ随想

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ナイチンゲールの「看護論」

ナイチンゲール(1820-1910)が38人の仲間と一緒に、クリミア戦争の後方基地と病院のあったスクタリに向かったのは1854年のことである。当時の病院は、貧しい病人を収容する場所であり、不潔で不衛生なところであった。しかも貧しい人たちが、そのような場所で我慢しながら治療を受けるのは、当然のことと思われていた。病院の管理や環境の改善をすすめることは、それ程必要なこととは考えられなかったのである。しかし当地の陸軍病院に入院しているのは労働者ではない。もう一度立ち上がって戦ってもらわなければならない兵隊さんである。そのような中で、彼女の活躍が可能となった。

ナイチンゲールは、ヒポクラテスの医学の熱心な信奉者であり、悪い空気が疾病をひろげるという「瘴気論」の推進論者であった。

ナイチンゲールは述べている。「病気を観察すると、個人の家でも、公共の病院でも、経験のある観察者を強烈に印象づけるのは、一般に病気によるもので避けられない、あるいは病気の結果であると考えられている症状や苦痛は、きわめてしばしば全く病気の症状というものではなく、全く別のもの、つまり新鮮な空気や光、暖房、静寂、清潔、食事の管理における厳密さや心配りの、それぞれ、あるいは全ての欠如によるものである。このことは、個人の家、あるいは病院の看護でも全く同様である。」

病気の結果であると考えられている、通常の発熱や下痢などは、新鮮な空気や光、暖房、静寂、清潔、食事の管理における厳密さや心配りの欠如によるものである。だとすればこれらの生活環境の管理における厳密さや心配りのフォローこそ、看護師の仕事であるとナイチンゲールは主張した。彼女は、こうして環境の変化や脅威から人間を守るのが、看護師の仕事であるとして、医師に対等な看護師の立場を担う看護論を構築した。

そして「看護の何よりも第一の原則、・・・そのことのためには全ての世話を後にしても良いといつも述べてきたこと、それは患者が呼吸する空気を外の空気と同じように、患者の身体を冷やすことなく、ピュアに保つことである」として、ナイチンゲールは、瘴気が生じることがないよう、清潔な空気の確保を図ること、それが看護の第一の原則であると述べて、スクタリの陸軍病院でそのような看護を実践した。

またナイチンゲールは述べている。「病院の方角は、最大限、南北にすべきである。太陽が出ている間、どちらかの窓から陽が入るよう、窓は両側に設置すべきである。現在、最良の病院でそうであるように、少なくともベッドふたつにひとつの窓がなければならない。・・・窓の面積は、壁の面積の3分の1でなければならない。窓は床から2、3フィート、天井から1フィートに設置すべきである。熱の放出は平坦なガラス、あるいは2重ガラスによって減らすことができる。しかし、それによって暖かさは確保できても、陽の光、あるいは太陽光線の浄化作用や治療効果を確保することはできない。」

スクタリの陸軍病院に入院している兵士の多くは、入院の間に感染症などの疾病に罹患して死亡していた。これに対しナイチンゲールは、「ナイチンゲール病棟」の開発を行い、それまで42.7%もあった収容者の死亡率を、一挙に2.2%にまで下げることに成功して、病室の清潔、患者の衛生確保、適切な食事の提供がいかに病気の回復や予防に有効なものであるかを明らかにした。その功績により、1859年、彼女は4万5千ポンドの基金を与えられた。この基金をもとに、1860年に聖トーマス病院に看護学校が創設され、近代看護制度の構築に向けた第一歩が始まった。その看護制度が人類の病院制度を育てたといえるであろう。

(文献:Florence Nightingale, Notes on Nursing, 1860・Notes on Hospitals, 1863)

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

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