こくほ随想

EBM神話の崩壊

3月11日、東日本大震災の発生した直後、総理大臣が「未曾有の出来事なので、どうしたらよいか分らない」といった意味の発言をし、マスコミは「無責任である」とか、「見識がない」とかと一斉に攻撃した。しかし、この発言(つぶやき?)が一国を代表する総理のものとしてふさわしいか否かの議論はさておくとして、きわめて正直な心情吐露というべきものである。

実は、この総理の発言を批判しているマスコミも学者も、同じことを実感していた筈である。わが国の地震の研究はその発生の予測にばかり集中していて、発生したときの被害のシミュレーションや対策の研究をなおざりにしてきたきらいがある。

それでは、予測をどのように行うかというと、過去の事例を検証し、そこから法則を見出して、未来にあてはめるというやり方である。これまでの学問は、経済学であれ医学であれ、このように展開されてきたのである。

本コラムの読者に馴染みのある用語でいうと、EBMがこれにあたる。これは、エビデンス・ベースド・メディシンという英語の頭文字をとったものであり、日本語には根拠にもとづく医学(あるいは医療)と訳されている。このEBMという用語は、金科玉条のようにもてはやされており、これに異議をはさむ人は、科学を知らないといわんばかりである。

しかし、地震の問題のアナロジーでいうと、過去のエビデンスにもとづいて作られた医学の法則が、これから起こる健康問題に万能であると考えることはまことにドグマチックというべきである。

筆者は、現在、看護師やリハビリテーション専門家を育成する仕事を行っている。実は、看護学の分野では、もうすでに過去の呪縛から脱け出す試みが行われている。看護学も1960年代までは、EBN(エビデンス・ベースド・ナーシング)が中心であった。しかし、1980年代、ベナーの看護学が登場して様相は一変してきた。1990年以降のベナーの著書は、2冊、医学書院から翻訳されて出版されている。

一口でいうとベナーの看護学は、新しい対象には過去のエビデンスがそのままあてはまることはないということである。一般的にいうと科学は、再現性や一般化や測定の可能性を求めている。しかし、それを追求した結果、それのみでは、本質の見極めも対策も十分にはできないことが分ってきたのである。

看護の目的の一つは病気になった患者の生活や健康のケアを行うことである。EBNの時代には、過去の似たような患者に対するケアの経験にもとづきマニュアル化し、新しい患者にあてはめるというやり方が一般的であった。しかし、ベナーの看護学は現象学的看護学とよばれているが、患者の症状や心理や生活は個人によりすべて異なっているという立場に立っている。

したがって、新しい患者を対象とするときは、その患者独自の状態や状況を把握するために努めなければならないということになる。EBNが過去の患者との同一性を探索したのに対し、異質性を探索するといっても差し支えないであろう。

看護の世界で量的研究のみでなく質的研究が重視されるようになったのはこのような経緯である。

EBMの反意語はブレークスルー思考ということになる。人類にとってこれから起こることは、すべて未曾有のことである。人類は、長寿化も高齢化もこれまで一度も経験したことがないのである。過去の経験やそれにもとづく法則が未知の時代にそのままあてはまることはない。科学の定義を変えるか、科学のみでは十分でないと考えるかは個人の自由である。ともあれ、EBM発想の克服が求められている。


文献:柴田 博『中高年健康常識を疑う』(講談社、2011年)

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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