こくほ随想

参院選の結果に民意をみる

国政選挙が終わると、いつもいわれる話がある。「国民がこの程度だから選ばれる国会議員のレベルもそれに相応している」という話である。これは、国民に対して失礼な言葉だと思うが、私は決してこのようには思わない。それどころか、いつの選挙でも国民の投票行動は正しく民意を反映して「いい線」を行っていると思う。

先般の参議院選挙も民主党は不満だったかも知れないが、ちゃんと昨年夏の衆院選挙によって誕生した民主党内閣を正当に評価していると思う。沖縄の軍事基地のもたつきや、「小鳩」の金にたいする感覚などを見ると、あの結果は妥当なところであると思う。表紙を付け替えただけの菅政権に圧倒的な支持が集まったとすれば、かえっておかしいと思う。

あまり世間ではいわれていないかもしれないが、民主党のマニフェストと称せられるものの多くは単なる思い付きにしか過ぎないのではないかということを国民は見抜いている。「コンクリートから人へ」というのはキャッチフレーズとしてはいい。しかし、こういったものは周到な準備があってこそ、説得力もでてくるのであって、思いつきのいいっ放しでいつでも変更したり、やめたりするようでは国民は簡単にはだまされない。

菅総理の消費税の問題にしても、真相は、財務省の役人や一部の学者から吹き込まれただけで、およそ「熟慮断行」ではないだろう。だからこそ自民党が提唱している10%に乗っかって一緒に議論をしようという安易なものなのである。私は最終的には消費税に頼らざるを得ないと思う。とくに社会保障を持続させる(強い社会保障というものはない)ためには財源も恒久的なものでなければならないだろう。しかし、その前に社会保障の無駄を排除することは必須条件である。医療の無駄のようなものは民主党の「仕分け」ではでてこないだろう。


こういったことは、国民は感覚的にわかっている。それが結果に表わされている。民主党にとっては「ねじれ」はやりにくいことであるだろうが、国民は「ねじれ」を選択したのである。自民党に圧倒的に勝たせたのではないが、参院を民主党の壁にしたのは国民の知恵である。

率直にいって、ねじれはあったほうがいい。少なくとも二院制である以上、ねじれがあることによって国会での論戦も生きるはずだし、横暴ができない。

さらにいえば、昨年夏の衆院戦でも、民主党はその4年前の自民党のように3分の2の多数は与えられていない。このことは、どうしても民意を問うためには「解散」以外にない。そうちょいちょい「伝家の宝刀」を抜くわけにはいかない。これは一種のブレーキとなって、国会運営が慎重にならざるを得ない。参院選直前の参院のように、議長不信任案を審議もしないで握りつぶすようなことはできないことになった。これも民意の表われのひとつではないかと思う。

さて、これからの国会運営をどうしたらいいだろうか。私は他のことはともかく、社会保障を政争の具にしないで、超党派で議論するわけにはいかないかと思う。それは、非常にむずかしい問題であるとともに、民主党には、社会保障のわかる議員が非常に少ない。かつて野党だったときには今井澄、朝日俊弘といった幅広い感覚の持ち主もいたが、なくなったり、議員をやめたりしていまはいない。私がとくにいいたいことは、医療政策は医者であればできるというようなものではない。医者であることはマイナス要因でないかもしれないが、医療政策と医学は本来、別のものである。民主党の幹部の中には、医師であれば医療政策ができると思っている人が多い。

それと、これはきわめて重要なことだが、厚労相が厚労省の役人と敵対していては何もできない。知識のあるのは役人である。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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