こくほ随想

百寿者の福音

『人生、99歳までは助走。100歳からが本番です』と語りかける姿に、満座の会場が圧倒されました。

11月初め、那覇市で開催された日本応用老年学会の招待講演での1コマです。講師は障害児教育のパイオニアとして著名な現役最長寿の教育学者(福岡教育大学名誉教授)、御歳103歳の曻地三郎博士。翁は、特別支援学校のプロトタイプとなった「しいのみ学園(障害児通園施設、福岡市)」で、今も現役園長として毎朝の朝礼を欠かしません。片足立ちも自在にこなす姿、年齢を意識させない翁の「若さ」にあやかろうと、国内はもとより海外からの講演依頼が後を絶ちません。年に100回の講演をこなす雄姿は、まさしく「スーパー・センテネリアン」です。

私事ながら、翁は生涯現役を貫き92歳で他界した父と同じ明治39年生れですが、顔のツヤ、声のハリ、心身の柔軟さとどれをとっても70代と映ります。翁の講演を前に、日々、心身の鍛錬に腐心していた亡父が重り、思わず目頭が熱くなりましたが、英仏独など8カ国語をマスターしていると知って得心しました。

翁の脳をMRIで分析した島史雄医師(貝塚病院機能神経外科主幹、福岡市)の診断では記憶中枢をつかさどる海馬の神経線維がしっかりと根を広げ、加齢による萎縮が極めて少なく、70 代男性レベルを超えています。

ちなみに8カ国語マスターの基本は、日課としているラジオの語学講座。健康長寿を目指す人には恰好の手本といえるでしょう。老年学の見地からも生涯発達理論の最上モデルであり、心身への継続的な刺激が健康寿命の延伸を支えることが解明されています。

一方、今年、100歳以上の高齢者(百寿者=センテネリアン)が4万人を突破。集計が始まった1963年の、実に260倍に及びますが、翁のように100歳からが本番と言える人は滅多にいません。理由は高齢者自身と家族を含む社会全体が、「加齢による心神衰弱は必至」とする常識に呪縛されているためです。老化の誤解と真実については稿を改めたいと思いますが、翁の健康法は実にシンプルです。

翁は生後半年で食中毒にかかり虚弱体質となりましたが、我が子の行末を案じた母の教え(1口30回、噛みなさい)を守り続け、以来100年間、日々実践。いわば咀嚼健康法といえますが、100年経っても色褪せない卓見は瞠目に値します。咀嚼によって内臓に負担を与えず、良質な栄養が全身に供給されることは周知の通りですが、同時に知覚や聴覚をつかさどる脳幹網様体が活性化。脳の各部へパルスを伝達することで脳全体の活力が増大するメカニズムが、翁の若さを担保していると解釈できるでしょう。

ところが、元神奈川歯科大学教授の斎藤滋氏の研究で、現代人の咀嚼回数は弥生期の6分の1、第二次大戦前との比較でも半分以下と報告されています(1989年)。原因は現代の虫歯罹患率の高さ。柳の枝で歯磨きしていた江戸時代の10%前後に対し、現代人は85%。現代の方が歯磨きに熱心にもわらず、圧倒的な差は、唾液量と軟食時代の影響です。

食後、プラーク内の細菌が庶糖と結合して酸化。永久歯ではプラーク中がpH5.5~5.7以下になると「脱灰(歯の表面が溶けだす)現象」が起ります。これを復元する職人が唾液で、酸性化したプラークを1時間ほどで中性化、溶けた成分を再石灰化します。また咀嚼は、唾液と食物を混ぜることで消化効率を高めます。

ともあれ、翁の咀嚼健康法は公衆衛生学、公衆栄養学、老年学の見地からも多くの示唆を含んでいるといえるでしょう。さて、気になる翁の献立は、ご飯にみそ汁、黒豆の煮物、青菜のおひたし、小魚のつくだ煮など多品種少量の小鉢が並びます(朝食)。いずれも少しずつ口に運び、1口30回を繰返し、食事時間は20分。満腹中枢が働く理想パターンですが、ビジテリアンではありません。ステーキも好物ですよと、少年のように微笑みます。

百寿者の福音に、母の教えを守る幼児の表情が映ります。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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