こくほ随想

新しい「公共」

かつて国民生活白書(内閣府・2004年版)は「新しい公共」の創造を提言している。この白書の作成に参画した者として、今一度、この問題提起を考えてみたい。

「新しい公共」という論議は、政府においては小渕内閣のもと20世紀末に始められたが、その源流は東京大学出版会から出版された「公共哲学シリーズ」(佐々木毅・金泰昌など編著)にある。そしてこの出版の中心となった公共哲学共働研究所(金泰昌所長)では、「既成の公私関係についての概念や解釈を、現代社会の直面する諸問題や将来世代への配慮という観点から再検討する」ため「公共知のための開かれた議論・フォーラム」を現在も精力的かつ多面的に開催されている。

お二人の学説を取り上げさせていただいたのは、「責任」という言葉が多用される現在、「法律違反」と「倫理上の問題」という二つの概念を私たちがどのように使い分けているのか、個人として社会としてどのように取り扱っているのかを考える必要があると思うからである。近年、経済犯について裁判所の判断が揺れ動くのも、「責任」についての社会的な共通認識が形成されていないからであろう。

戦後、我が国の社会は、「公」と「私」を対立構造(二者択一)とし、「公優先社会から私優先社会」への歩みを進めてきた。法律学などの社会科学の世界においても同様であり、私自身もその中を歩んできた。

しかしながらヨーロッパ社会における議論、特に社会保障に関する議論は、実は「公共」という概念を中心に形成されており、例えば教会、協同組合、経済団体、労働組合さらには地方公共団体などの「社会構成員」を「中間団体」として高く評価する。フランス人トクヴィルが「アメリカン・デモクラシー」で叙述したのも地方公共団体などの中間団体論であるが、この「公共論」は「国家という公」にも「個人という私」にも従属せず、その間を含め、両者に及ぶものになっている。

考えてみると、我が国の社会保障論の硬直性の原因は「公私分離・対立論」にあり、福祉国家論という優れた議論が誤読されたのも、「公共の社会保障」を「公と私」(あるいは国家と個人)の対立で解読しようとしたからであろう。「国家統治としての社会保障」か「個人の人権としての社会保障」かという命題、さらに「正義は一つ」という一元論に基づき、どちらが「正義」かという闘い?が社会保障の学界で行われてきた。そして国内において「一つ」の答えを見出だそうとするため、国会・政府という土俵で、その闘い?が繰り広げられてきている。

果たして社会保障とはそういうものであろうか。ヨーロッパの社会保障論は、概ね年金制度は国が、医療制度は県が、社会福祉制度は市が、その企画・運営の中心に参加しており、必ずしも国家一元論になっていない。したがって、その財源も税や保険料など、さまざまな資金がこれに当られている。まさに実践の担い手としての「中間団体」を意識した構造である。その意味で「多元論(寛容論)」との親和性が強いわけであるが、そもそもカトリック教会、プロテスタント教会、産業界、労働組合、NPO団体、市民など様々な個人・法人を包摂して、国家や社会を形成してきたヨーロッパ各国の歴史に鑑みれば、当然のことであったとも言えよう。

我が国の社会保障制度も、例えば医療サービスが様々な「病院・診療所など」によって提供され、医療保険制度においても健康保険組合、国民健康保険など多数の「保険者」によって多元的に担われていることを考えてみれば、本来そして現実として、多元主義であったことは間違いが無い。我が国の社会保障を論ずる場合にも、このような「新しい公共」(いくつもの公共)を再発見し、再形成していく必要があるのではなかろうか。

多元論(寛容論)を踏まえた社会を構想し、柔軟な社会保障論を構築していくためにも、「公と私」「国家と個人」という対立軸から脱し、「新しい公共」の議論を深めていく必要がある。そしてこの「新しい公共」を支えるものこそが民主主義なのではないだろうか。

正義の名のもとに「公」という一つの正解を求めるのではなく、デモクラシーを尊重して「いくつもの公共」の併存を共通理解としていくことこそ、これからの社会保障論の基盤であると思う。今一度、「新しい公共」という問題提起を行うこととしたい。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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