こくほ随想

責任と倫理

「法における主体性」と書かれた色紙が私の机の上に置かれている。大学時代の恩師、団藤重光先生が、私が厚生省に就職するに際して書いて下さったものである。先生の法学思想の中心は「人格責任論」であり、人間が何故に「責任」の主体となり得るのかという「哲学的・倫理的な問い掛け」から団藤刑法学は構築される。私は最も不肖の教え子ではあるが、「責任」という言葉を聞くと恩師の厳しくも暖かなお顔が思い浮かぶ。

もうお一人、刑法の講義をお聞きした方で、若くして亡くなられた藤木英雄先生という方がおられ、「ホワイトカラー犯罪」という新しい犯罪類型を提唱し、学界に大きな衝撃を与えられた。殺人や窃盗など人類始まって以来の犯罪、刑事「責任」の基盤に「倫理」を置いている古典的犯罪と異なり、「ホワイトカラー犯罪」は被害者が見えず、「知らず知らず」に犯してしまう現代的な犯罪である。刑法学はこのような犯罪をどのように認識すべきかという問題提起であった。

お二人の学説を取り上げさせていただいたのは、「責任」という言葉が多用される現在、「法律違反」と「倫理上の問題」という二つの概念を私たちがどのように使い分けているのか、個人として社会としてどのように取り扱っているのかを考える必要があると思うからである。近年、経済犯について裁判所の判断が揺れ動くのも、「責任」についての社会的な共通認識が形成されていないからであろう。

確かに「悪い奴は罰すれば良い」わけであるが、「悪い奴」とはどういう行為をした人であるのか。その行為をした人が「その時に、神に誓って、悪意なく行った行為」に対して、後になって「間違いだった」と分かった時、社会はその「人」に対してどのようにすれば良いのであろうか。

団藤先生が「人格責任論」を主張されたのは、まさにこのような行為者に対して、その時点における「行為と意志」を「犯罪として」問えるのか、問うべきなのかということであった。そうでなければ、人間は行為に「責任」を負えなくなり、社会活動が出来なくなる。罰則の適用も「運・不運」になり、法治主義という民主主義の基盤が崩れていく。

この問題のポイントは「責任」の扱い方にある。「負えない責任」を負わせることは、「人」と「社会」を「無責任」にする。

話は変わるが、最近の話題に中谷厳氏の転向?がある。多くの識者は「潔く転向した」と好意的であるが、批判されるべきは転向の理由にある。ブータンにしろキューバにしろ、長く素敵な国造りが行われていたことを「発見」し規制改革派から転向したと言う。それでは「自分が無知であった」と言っているに等しく、「無知」を理由に転向するのは、公職の一翼を担っていた学者として「無責任」以外の何物でもない。これから「学者として再出発する」という前に、その「責任」を明確に取ることが必要であると思う。軍隊の指揮官が部下を飢えで死なせた後で「私の指揮は間違っていた」「食糧のことを考えていなかった」ということが許されるはずがない。

「責任」とはこういうものなのではないか。このような「責任」は、一人一人の人間にも同様に課せられるものであろう。この「責任」は少なくとも倫理上のものであるが、発言に「責任」が伴わなければ、「言論の自由」も民事上の「契約」も成立するはずがない。

「道徳(倫理)は-内容において-最高のもの、法律は-強制力において-最大のもの」という人類の叡智ある言葉を思い出す。

私たちが「社会」を構成する以上、全てを法律や刑法で規制するのではなく、倫理上の「責任」を重いものにしていくことこそ、社会を構築する基盤となる時代なのではなかろうか。特に「言論」や「学問」で生活を営んでいる人に対して、このような「責任」を強く問いたいと思う。我が身においてたとえ「天に唾をする」ことになったとしても。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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