こくほ随想

『いのちの教育』に寄せて」

先日、聖路加国際病院理事長の日野原重明さんに話を伺う機会があった。長年の人生経験、職業経験に裏付けられた95歳の現役医師の言葉は、どれも印象深く、現行の医療制度や社会保障制度に関する意見には耳を傾けるべき内容が多かった。中でも、現在、子供たちに行っているという、「いのちの授業」の話に魅かれた。

それによると、日野原さんは小学校などを訪れ、子供たちに「命の重要性」を教えているという。具体的には、「命とは何だと思いますか」と質問して子供たちに考えさせたり、心臓と同じぐらいの大きさの野菜や果物を実際に手に持たせたりする。また、教室に聴診器を持ち込んで、自分たちの心臓の鼓動を聞かせたり、二人一組のペアにして、互いの胸に耳をあて、心臓の音を聞かせたりしているそうだ。

この話を聞いたとき、思わず「いい話だなあ」と思った。生きた社会保障教育、いや、「社会保障」という枠を飛び越えて、まさに血の通った人生の教育がされていると感じたからだ。何より、子供たちが、互いの胸に耳をあてて、心臓の音を聞き合うというのがいい。「ハグ」といって、会ったときや別れるときに体を抱きしめ合う習慣のある欧米人と違って、日本人は、ナマの体に触れ合う機会が少ないように感じられる。ましてや、きょうだい数が減って一人っ子が増えた今の子供たちにとって、そうした機会は貴重だ。

もちろん、ペアになった相手の子供が、大好きな友達である場合も、それほど好きではない友達の場合もあるだろう。しかし、血の通った、温かい相手の体に触れるだけで、子供たちは多くのことを感じ取るに違いない。一度でも他人の体に触れてみれば、その体をいじめたり、傷つけたりすることは、しにくくなるのではないだろうか。

この授業の中で、日野原さんは、命について、「命とは、自分が使える時間のことを指すのだと思う」と言われているそうだ。そして、「自分のために使える時間が命。その時間を、自分のためだけでなく、他人のためにも使うことを考えてみよう」とも提唱されていると聞いた。

命の教育といえば、現在、上智大学名誉教授であるアルフォンス・デーケンさんの死の教育も有名だ。デーケンさんは、もう約30年も前から、日本の大学では珍しく、「死」に関する講義を行ってきた。筆者も、授業を拝聴したことがあるが、死を容認するプロセスや、死とユーモアとの関係性など、その内容は斬新で面白く、大いに知的好奇心を刺激された。デーケンさんは、大学での第一線の授業を終えられたいまでも、市民向けの講演などを続けておられる。

日本では、長年、「死」について語るのはタブーだとされてきた。何年か前に永六輔さんの『大往生』がベストセラーになったとき、そうした日本人の死生観もずいぶん変わってきた、といわれたものだ。家で死ぬのが当たり前だった「在宅死」の時代から、病院のベッドの上で死ぬのが当たり前の「病院死」の時代となり、直接、人間の「生」や「死」に触れる機会が少なくなってきた。それだけに、日野原さんやデーケンさんのような取り組みは貴重で、生や死について学ぶ機会は子供や学生のころから、できるだけ多くあったほうがよいと思う。

子供たちへの教育といえば、スウェーデンでは、幼稚園児から「認知症」について教え、子供向けに書かれた「認知症」に関する絵本が人気だとも聞いた。絵本は、認知症になったおばあさんを持つ女の子が主人公で、認知症とは何か、また、老いるとはどういうことかなどがわかるようになっているという。

「生」「老」「病」「死」--。社会保障教育であると同時に、その枠を越えた人生の教育の場が、超高齢時代の日本で、ますます広がることを願っている。

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