こくほ随想

「三位一体改革の意義」

三位一体改革を巡る議論が再燃しつつある。去る4月20日に第一回の「生活保護費及び児童扶養手当に関する関係者協議会」が開かれ、昨年11月の政府・与党合意で先送りされた生活保護費及び児童扶養手当に係る国庫補助負担率のあり方に関する国と地方の協議がスタートした。

 

三位一体改革とは、国の補助金を削減し(国庫補助負担金の廃止・縮減)、その分所得税率を引き下げて住民税率を引き上げることにより地方の自主財源を増やし(税源移譲)、合わせて地方交付税交付金の配分方法を見直そうというものである。こう書くと、所詮、国と地方の間の財源争いに過ぎないのではないかと思われるかもしれない。しかし、この改革は、やりようによっては、国と地方の関係を逆転させ、この国の形を変えてしまう大改革となる可能性を秘めているのである。

 

明治以降、わが国は中央政府が全国を支配するという統治構造を基本として発展してきた。それを可能としたのは、中央政府がヒトとカネを独占したからである。ヒトについては、高等文官試験(現在の国家公務員Ⅰ種試験)によって全国の優秀な若者を官吏として登用した。カネについては、所得税・法人税を始めとする国税中心の税体系を作って財源を国に集中させ、これを地方交付税交付金や補助金・負担金という形で地方に配分してきた。そして、この補助金の配分などを通じて国の意向を全国津々浦々まで徹底させてきた。いわば「カネを出すから口も出す」という形で中央集権を堅持してきたのである。

 

三位一体改革は、このカネ=税源自体を国から地方に移譲しようとするものである。したがって、これが本当に実現すれば、地方は補助金を獲得するため国の顔色をうかがい、その言いなりになる必要はなくなり、自ら集めた税金を使って、自らの判断で何にいくらの予算を使うかを決定できるようになる。文字通り地方自治の確立である。

 

しかし、このような改革に対しては、中央省庁の官僚はもちろん、国会議員もこぞって反対する。国の役割が減れば、彼らの権威が低下するだけでなくその仕事も減ってしまい、国会議員の定数削減といった議論につながりかねない。また、中央省庁の中には補助金の配分を主な仕事にしている課がいくつもあるが、補助金がなくなればそこの課の仕事もなくなるわけで、三位一体改革は霞ヶ関という巨大な官僚機構のリストラ策でもある。

 

だが、これだけ画期的な意義を持つ三位一体改革にもかかわらず、国民的な盛り上がりは今ひとつのように感じられる。その理由は明らかでないが、三位一体改革の意義が十分理解されていないだけでなく、国民の中に自治=自分たちで決めることへの躊躇があるのかもしれない。

 

この点で手本になるのは、国保である。市町村保険者が集めた保険料(税)の使途を市町村議会が決める。国保は、日本の社会保障制度の中で最も自治が進んだ仕組みである。もちろん、国保も多くの問題を抱えており、だからこそ国が保険者となって全国一本の制度にすべきだという意見も出てくる。しかし、国が保険者になったところで、結局、必要な費用を負担するのは一人一人の国民である。しかも、少子高齢化が進めば、年金や医療、少子化対策などの社会保障のために国民の税負担はさらに重くなって行く。

 

このように三位一体改革は、福祉や教育、公共事業などの公共サービスのあり方をどうするか、そのために税金をどの程度負担するかについて、これまで通り一握りの国会議員と官僚が全国一律の基準で決め地方はそれに従うのか、それとも自分たちの身近な地方議会で地域の実情に応じて決めるのか、という民主主義のあり方の選択の問題なのである。そしてこれは、これまでの国保の保険者自治という経験をどこまで前向きに生かせるかという問題でもある。

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